大同2年(807)に、弘法大師が人皇五十一代平城天皇の勅願に奉じてこの地を訪れ、本尊薬師如来、脇仏阿弥陀如来、十一面観世音の三体の尊像を自作なさり、堂宇に安置し、観自在寺は開基されました。 この三体の尊像は、世に名高い一木三体一刀三礼の尊像として、上は天皇より一般庶民に至るまであらゆる人々の帰信を受けました。 その後、日本四ヶ所の鎮守の一に数えられ、また四国霊場の裏関所として万民の尊崇を受けるようになり、特に畏くも平城・嵯峨の両帝は、親しく行幸され御朱印を下し、一切経並びに大般若経を納められました。また、毎年勅使を遣わされて護摩供の秘法を修行せしめられました。 これにより、この周辺を御荘と称し、勅額山号に因んでこの地を平城と呼ぶようになりました。 往時は、七堂伽藍がそびえ、四十八坊の末寺があり荘厳華麗を極めましたが、その後数度の災難にも遭い、昔日の観を失ってしまいました。 延宝6年(1678)、宇和島藩主伊達宗利侯の祈願所として旧観の幾分を回復し、明治を迎えましたが、昭和34年(1959)火災に遭い、本堂を焼失してしまいました。 不思議な霊験により助かった本尊の御加護と、全国大師信者の熱烈な御支援により、昭和39年に大師創建当時の姿に復旧し、本堂・大師堂・書院・諸堂宇が新しく完成しました。 また、寛永15年(1648)に、京都嵯峨御所大覚寺門跡空性法親王より薬師院の院号を御下賜されてより350年を記念して、心経宝塔並びに十二支守本尊八体仏が建立され、塔内には般若菩薩を安置し、心経写経・納札が奉納されました。 現在では、宝聚殿八角堂・信徒会館も完成して裏関所としての荘厳さを加え、四国霊場厄除祈願の根本道場として、全国各地からの参詣者をお迎えしています。 |
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